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  • 2019/10/12 (土)
  •  社会が文化を生み芸術を育むのか、芸術が文化をけん引するか分からないが、表現の不自由展で世相が慌ただしい▼表現の自由は十分に理解し支持もするが、不特定多数が相手故、責任とともに自制も生まれる。理由は社会における不都合の抑制だが、不都合の解釈ですら相違が生じそう▼渦中の作品は、事実の確証が不明確といわれる従軍慰安婦の像ではない。昭和天皇画像の焼却と、その灰を踏みにじる映像だ。気分が悪い▼これにて民族主義者と断定、イデオロギーの偏りなどと一方的に判断されては困る。単に人の画像を焼く行為が気持ち悪いだけ。例えば芸術を盾に自身の両親や伴侶、わが子の写真を焼かれて踏みつけられ、それを作品にされたらどう思うか▼良悪の差を明確にし堂々と説明、理解への努力を払う責任は誰もが有する。「議論機会の提供」などと居直る身勝手な正当化はだめ。わが家では息子が「やってよいこと、悪いことがある」と憤慨一喝▼かの岡本太郎は芸術を「爆発」と表現し、ピカソは「発見」と称した。独自性は結構だが、両者は社会に不都合を与えてはいないはず▼無関心を装い問題を看過、逃避していては前に進めない。

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